私の考え方が変わるきっかけとなる高三になる前の春休み~第一章~
考え方を変えるということ
私の小さな目標
みんなは私のことをどう思っていますか?
まじめな人、そっけない人、やさしい人、人見知りな人、おもしろい人
それは私と話してみて思ったのでしょうか
雰囲気を見て思ったのか、外見から見てそう感じたのか
全てが自分が思ったものと一致していたなんてことはないです
そう思い込むのは私だけですが、、
そうです、私はたくさんの価値観を持っていた
優しい人でありたい、謙虚で思いやりがある人でありたい
その一方で、嫌われたくない、嫌われているかもしれない、今私のこと嫌いかもしれない
今は嫌われていなくても、これから嫌われるかもしれない
自覚していなくても、私の体がなにかを恐れていることを伝えているのがわかる
今日、春季講習を受けていて体に変化があった
プリントを解くことに集中できない、人がいるのが気になる、先生が来るのが気になる
先生が話しかけてこないと、なぜか気になり少しネガティブになってしまう
授業中に先生と目が合いそうになると頭が震える
解いている時も震える、手汗が尋常ではない
3限目の英語では精神的に体力の限界がきた
眠くて集中できない
今に始まったことではもちろんない
しかし、なぜそうなのか理由がわからなかった
気持ちは心より軽く、そのことに対して絶望的な辛さはなかったので、体が勝手に反応してしまうからしょうがない
そう考えてあげよう、それで解決しているつもりだった
でも、その時ふと気付いた
ある日もらった言葉を
「え!人見知りじゃない人なんているの!?
程度の差はあれ、誰だって人見知りはしますよ
知らない人は誰だって怖い
あなたの目の前にいる人だって、あなたが怖い、だって知らないから
あなたは何をされたら安心できますか?それを目の前にいる人にしてあげてください」
DJあおいさんの「DJあおいのお手をはいしゃく」の一節を引用しています
そんな言葉を思い出した
それから学校の帰り道、考えていた
私の行動を振り返った
嫌われていること、恐れていること、人がどんな人かを思い込むこと
私の違和感ある、未だ謎だった全ての理由
「自分のことしか見ていない」ということ
自覚はもちろんあった
いや、なかったのかもしれない
自分の持っていた価値観のほとんどがきっと当てはまっていたと思う
私が授業中に黒板ではなく、鏡で自分を見ていたように、、
私の恐れている人はあまり話したことがない
その人がわからないから、人を知るには話し合う、それしかないからだ
しかし、それはみんなも同じ状況である
私だけじゃない
しかし、その「私だけじゃない」ことに気づかないのだ
そして私は話し合うことのできない人に対して
自分が傷つかないように、ネガティブなことを考えざるを得なくなってしまうのだ
そうして思い込んで思い込んで私は壊れてしまう
そしてもう一つ、そんな精神状態になってしまった一つの原因がある
それは生活習慣、中でも睡眠時間
ある日、私はそれを怠った
そして、そんな精神状態で授業を受ける、そして私は壊れた
授業を受けることができなくなった
休んだ理由を「話し合いをしてこなかった人」に聞かれた時、私は話し合うことをしなかった
話すことの大切さを知らなかったから
それでも、その人が心配してくれたと自分で解釈して、一人で自己満足して解決した気になっていた
それでも、その人といるときは体が拒否反応を起こす
その日の放課後、その人に呼び出された
私は怒られると思ったけど、そうじゃなかった
先生は私と「話し」がしたいと思っていた
私の行動の原因を知ろうとしてくれた
私が何を考えているのか、直接本人に聞いて、話し合いをしてくれた
それは、同情とか慰めとか説教とか、そういうことじゃなくて
私の話す事実を聞いて、一緒に原因を探ってくれて、解決へと行動してくれた
私が話すまでは先生はいろいろ考えていたことを伝えてくれた
でもそれは、先生のある意味思い込みに過ぎないのだ
何もわからないから、何も知らないから、自分で考えて自分で原因を考えて答えを出すことしかなくなる
しかし先生のその答えは半分当たっていて、半分間違っていた
先生は私の行動から原因を考えていた
しかし、本当の答え、全ての答えはおそらく絶対に見つからない
本当の答えに一番近づくのは「話し合いをする」ことしかないからである
それを知っているからこそ、私に「話し合い」を差し出した
でも、常に話し合いができるわけではない
だからこそ、自分の考えというのが重要になってくる
今書いたように、人を知るということは「話し合う」ということでしかほどんどはわからないのだ
それに気づくことが一番大切なことだった
つまり、話し合いのない状況に置かれた時、その人を気にかけることが意味のない行為
わからない事から逃れたい、自分を守りたい、傷つきたくないという思いが間違えを導く
そして先ほど気づいたもう一つ
人見知りでない人なんていない、私の目の前にいる相手も、私が怖いということ
怖いをいうのは極論だけど、相手も同じ状況、立場にいるということに気づくこと
どちらの方が人見知りだとか、どっちが優れていてどっちが劣っているということはきっとなくて
一人の人間として向き合うこと
自分と同じ人間であるということ
だからこそ、自分だけが自分だけがと心を閉ざして受け身になるんじゃなくて
相手も同じく弱い人間であるから
話し合いをする場でない時はその人を知ることは絶対にないことに気づき
自分の考えていることはほとんどあたっていないと良い意味でとらえることだ
私の今の目標は自分が傷つかないようにどう守るかではなく、自分が幸せになるためにどう考えて生きていくかである
私の一人前になるための小さな小さな、そして何よりも大切な一つの目標である
私は学校に行くのがストレスだった
頭震えるし、手汗やばいし、授業に集中できない
その時に自分の感情以上に体が反応していたので、ありのままの自分を受け入れていくことにしようと思った
しかし、それは答えではなかった
なぜなら、そうしたところで状況が何も変わることはなかったからだ
本当の原因がわかっていても、自分に必要な解決策が見つかってなかったのである
「話し合い」でしか人の本当のことを知ることができないということ
だからこそ、解決策は話し合いをするということではなくて
つまりひとつは、話し合いでしか人を知ることはできないことを自覚することが大切で
もうひとつは、程度の差はあれ、目の前にいる相手も、よく知らない私に不安や恐怖を持っていると自覚すること
そこに気づけて初めて、他人に興味を持ち、寛容になり、自分に余裕ができて
その余裕ができた分、人に手を差し伸べることができるんだと思います
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